平成7年3月発行 高齢者教室文集「みのり」より
時子ばあちゃん、75歳の時。
12月ある日、幼稚園の祖父母参観日に出席した。園児の学習発表会である。
楽器を使ったり歌ったりゲームをしたり、老人のリズムはずれの歌よりも
遥かに上手であった。
やがて、もち米も蒸しあがり、キネとウスを使っての餅つきである。
男性方はもちつき、女性は手ごね、そして餅きり等。
子ども一人ひとりが手伝ってもらいキネを使ってのもちつき体験であった。
無邪気に悦ぶかお顔。餅を早く食べたいといっている子。小さく切ってきな粉をまぶし、
口の中へ入れてやると喜んで走り去っていく子。残ったきな粉を手ですくって食べる子。
どの子を見ても天真爛漫、嬉々として戯れている。
中には塩辛い子、甘い子、素早い子、遅い子、いろいろ居るけれど、私は園児を見て思う。
現代世相をゆるがせているいじめ問題を考えると、この子らもやがて成長すれば
加害者となり被害者となるであろうか。
年を重ねた私達の子ども時代は、1~2回のいじめはあっても何年越しの陰湿な
いじめには唖然とする。何が原因であろうか。社会教育もさることながら、
いじめっ子を育てた家庭教育の根本からのゆがみとも思う。
人も自分も大切に、立場を置き換えて考える。やる者がやられる立場に
暴力を振るう者が振るわれる立場に、と私は常に言っているのだけれど。
ある新聞社の社説の末尾に出ていた。
「他人の痛みを知る、卑怯な行為を恥じる、遊びや自然体験で豊かな人間性を培う
教育が必要」とあった。
また、いじめをやった本人等には反省の色も見られず、との報道に考える。
幼児でもあるまいし、中学生ともなれば事の善悪は十分に分かるはず、
これ等の罪の軽さに、いつもあせりを感じるのは私一人だけであろうか。
氏名を報道し、罪の重さの制圧を受けるべきだと思う。
三朝大西先生の投稿文の抜粋に「犯された人権(人命)よりも侵した人権が
過重に庇護されるかのような風潮がいじめグループ発生の最大原因と思考される」とあった。
「論点 落合恵子作家 抜粋」では、
「現在のいじめの報道を見ていると、ここにもいじめ構造が垣間見える。学校や教師が
気付かなかったことは責任重大だが、真の加害者の一挙手一投足を並べて、
より感情的に報道する姿勢こそいじめの構造といえないか。個を収奪する教育行政そのもの
について論じてこなかったジャーナリズムも子供たちの自殺に無意識に加担してこなかった
ろうか。」 私の思考と近いものを列挙した。
世の母親様よ 強くなろう。
我が子の躾けも厳しく、いじめっ子には更に厳しく、親が立ち上がらねば、
子どもは死から守れない。
おじいさん、おばあさん、直接に間接に、子供たちへの教育、善悪の分別、
自然とのかかわり等々・・・。伝えることこそ、残された使命であり、社会参加ではなかろうか。
と私は思う。
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11年前に書かれた文章だが、今でもなるほど!と考える。
北海道、福岡の中学生の自殺に、「学校は、教育委員会は、死なないと動かないのか。」と、教育行政、教育現場に対する不安感、不信感は増すばかり。今の教育システムを改革しないことには、いじめは再生産され続ける。「向学心のない者は去れ!」とう毅然とした態度が望まれる。
「孫達は、無事に学校生活を送っていること。それだけでもうれしい」と、悲惨ないじめのニュースを前に、涙ぐむ時子ばあちゃんである。