この文章は、東伯郡東伯町教育委員をされていた日置春蔵さん(当時60才)が
日本海新聞に投稿(昭和62年9月21日付け)されたものです。
時子ばあちゃんの亡き弟の事が書かれていたのでここにその全文を紹介するものです。
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ハーモニカ合奏指導
昭和15年鳥取県師範学校講習科を仮卒業して、東伯郡中北条尋常高等小学校に
代用教員として赴任した。3年生男子33人の担任となり、3月17日に本卒業して
准訓練となった。
4月から中北条国民学校と校名が変わり、終戦後の昭和22年までこの校名が続く。
この写真は「昭和17年2月25日学芸会でハーモニカ合奏」と記録にあるから
4年生の時の学芸会である。右から馬渕雄幸、森田嘉昌、私、友定隆之、野島道夫。
曲は太平洋行進曲だったと記憶している。右の2人が旋律を吹き、
左の2人が和音伴奏である。旋律は普通の複音ハーモニカで、
和音は小型で3種類の和音が出るハーモニカである。
ハホト、ハヘイ、ロニトの和音で、今で言うドミソ、ドファラ、シレソに当たる。
太平洋行進曲の合奏、編曲は私がした。ハーモニカ指導はクラスの
生徒達に教えて、もっとたくさんの人々が練習していたのであるが、
なかなかうまく吹けるようにならず、そのうち学芸会が迫ってしまった。
結局4人で合奏することになった。馬渕君と森田君は特に上達が速く、
ベースもうまく入るようになった。
時局は太平洋戦争に突入(昭和16年12月8日)後間もない時代であったが、
生徒の指導に、学習の授業に、随分と厳しいしつけをしていた。
全体責任だといって罪もない者も含めて、雪の中をはだしで何時間も
立たせたことは、時に記憶が鮮明である。3年の12月に担任になってから4年、
5年、6年と持ち上がり、卒業式を間近にひかえた19年2月25日、
下北条駅で歓呼の声に送られて生徒達と別れた。生徒と別れる時
「もとより生きて帰ろうなどと夢にも思いません。死して祖国の礎となる」と
挨拶したのをはっきり覚えている。
運がよかったのか悪かったのか、生存者の一人に入り、21年6月内地に
復員してきたのである。その後、教職として復帰。41年間の教職生活を経て定年退職。
今は自宅でささやかな農業を営んでいる。古いアルバムにこの写真があって
当時をなつかしんでいる。
森田君は特に音楽に秀でていたように思う。5年生になったらピアノを練習させた。
あれから約半世紀が経過した。馬渕君は今、北条町教育委員会教育長。
森田君は東伯小学校長として活躍。友定君は学校卒業依頼家業の畳屋を営み、
中部製畳で活躍。野島君は米子寿製菓の工場長として活躍していたが、私より
早く逝ってしまった。静かに冥福を祈る。
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