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時子ばあちゃんの 85Blog

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但馬の村岡に思う  ~後編

但馬の村岡に思う  ~後編_f0018963_16293923.jpg


写真右が「らく」。写真ではなくて、写真を元に絵にしたもののよう。









それからおばあさんの世話で隣村の素封家(分限者)の上女中として仕事をするようになった。
持ち前の気の強さは出さないし、仕事は万能であって良く働いた。
夜なんの片付けが終われば、おかみさん髪を結いませう。あんまをしませう。
すべてこの調子であるから、気に入られない訳がない。
忽ち評判になって、あちこちの金持家から声がかかるようになった・
縁あって土下(はした)の地に落ち着き結婚したが、子どもができない。
隣村から母親に死別したちゑ(姓)をもらって養育した。
ちゑの話では、物心つく頃母について、子連れの上女中としてついて行ったが、
たいくつで帰りたいと言って駄々っ子すれば、おやつや布切(ちりめん、きんしゃ)などを
買ってもらって嬉しかったことを記憶していると話していた。
ちゑも大きくなり、学校から帰れば田の草取りの手伝いもさせられたが、
母の傍を少しずつ田の草をとっていると、
「気づい気ままな我が心故に知らぬ他国で苦労する」と唄っていたという。
労働苦と気苦労と切なく切なく唄ったことと偲ばれる。

物売りがくると、「今は間に合っていますから又どうぞ」手をついて丁寧な扱いをしていた。
また村の会合でも意見は堂々と言い、男にもひけを取らない人だったとか。
すべて姑ちゑに聞いた話であるが、らくの生涯は幸せだったろうか。
仏壇の写真を眺め、但馬の村岡を想い、交錯する私の心の一時をすごすのである。
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但馬の村岡に思う  ~後編_f0018963_16533519.jpg

今日は8月16日。お盆も終わり、送り火をする。
長男家族も、年老いた両親を想い、元気な顔を見るために、また、
家族の笑顔を見るために十何時間もの渋滞の中を帰省してくれた。
・・・・・・・「ありがとう」。
これで、時子ばあちゃんも進じいちゃんも次の一年を頑張れる。
# by kanashuyuma | 2006-08-16 17:05 | おっせかいこぼれ話

但馬の村岡に思う ~中編

これから祖母姑らく(名前)の由来を書いてみる。

らくは但馬の村岡の生まれで、山名門戸の助(殿様)のお城へ出入りする
家の娘として生を受けた。
物心つく頃よりお城へ出入りし、皆に可愛がられていたが、特に奥方にはらしや、
はらしと寵愛されていた。反面礼儀作法には至って厳しく躾けられ、言葉動作の
やり直しは再三であった。成長するにつれて手習いもいろいろ習得し、持って
生まれた器用も加わって何でも出来る気丈な娘に成長した。

やがて、年頃になると親の言いなりで嫌いな男との結婚が進みつつある。
反対しても断っても聞き入れられず、着々と進んでいく。らくは考えた。
このまま家に居たらいやでも結婚させられてしまう。それでは、家を出よう。
出るとしたら、京大阪へ行ったらすぐに足がつき、帰される。
では、西へ。西だったら何処へ。弓ヶ浜へ行って「 つむぎ」(糸につむぎ絣を
織ること)をしよう。
決心したらくは夜道を唯ひたすら一生懸命西へ西へと歩いた。
夜が白々と明けてきた。とある茶店(橋津あたり)へお茶でもと立ち寄った。
暫くすると茶店のおばあさん曰く
「さっきから様子を伺っていると仔細ありそうに見えるが、差し支えなかったら
はなしてみなさらんかな~」と、問いかけてきた。
らくは、考えた。此処までくれば、追手は来ないだろう。
そうだったら一切を打ち明けようと決心し、一部始終を話した。
おばあさんは、身動ぎもせず聞いていたが、暫くして、
「どうですか、娘さん。弓ヶ浜まで行った所であてがあるわけでもないし、
このあたりにあたりに落ち着く考えになれば、私も知り合いもあるし、
悪いようにはしないから、」との話に、お世話になってみようかと
心が傾いていった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・続く。但馬の村岡に思う ~中編_f0018963_2244267.jpg

はたして、らくの運命は・・・・
なにやら、時代小説を読んでいるような不思議な気分。
これは、3世代ほど前の本物の物語なのである。

らくの肖像画(写真から起こしたもの)があるという。次回に掲載予定。
# by kanashuyuma | 2006-08-07 22:48 | おっせかいこぼれ話

祖母姑らくのこと

平成6年高齢者教室文集「みのり」より。時子ばあちゃん74才の時。

但馬の村岡に思う (前編)

昨年10月29日30日。小春日和の暖かい日であった。
前から計画していた予定通り、私達姉弟の夫婦連れで両親の納骨のため
京都へと出発した。京都への旅程は2回目になるが、めったに通らない道で
あるから車窓に見える景色はものめずらしく、おしゃべりに花が咲く。
京都府立植物園、東本願寺、西本願寺へと。
さすが名も高き本願寺である。初めての私は凡てが荘厳で気迫に圧倒された。
びわ湖畔に宿をとり旅の疲れを癒す。
翌日、比叡山延暦寺へ。秋たけなわ、さすが何処へ行っても参り所人の集まる
ところには香り高き菊が献納展示されていたのが目にとまる。
昨日京都へ来る途中、私は鳥取を過ぎてからいつ来るか、いつ来るかと窓の外に
目を離さず注意していた。
「但馬の村岡」である。20数年前一度通ったことがあるが、今回が二度目。
やがて目の前に現れてきた。山懐から平地にかけて細長い町のようであるが、
以前とは全然見違える程に発展していた。
県立高校あり、警察あり、県立であろう大きな病院あり、山名城主跡の標柱も見えた。
さすがに城下町但馬の村岡である。
私は懐かしくこの町へ降りて、散策でもしたかった。
なぜなら、私の祖母姑の出生地ふるさとであるからだ。  ~ 続く~
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祖母姑らくのこと_f0018963_20155733.jpg
但馬の村岡から、ここ鳥取の北条という地にたどり着き、
その生涯を終えた「らく」という名前の女性。
その時代にすれば波乱万丈の人生がここに書かれている。

「すべて姑ちゑから聴いた聞話である。らくの生涯はしあわせだったろうか。
仏壇の写真を眺め、但馬の村岡を想い、交差する私の心の一時をすごすのである。」
と結ばれている。
この時、らくと自分とを重ね合わせ何を想うのだろうか。
# by kanashuyuma | 2006-07-31 22:48 | おっせかいこぼれ話

私のアルバム

この文章は、東伯郡東伯町教育委員をされていた日置春蔵さん(当時60才)が
日本海新聞に投稿(昭和62年9月21日付け)されたものです。
時子ばあちゃんの亡き弟の事が書かれていたのでここにその全文を紹介するものです。
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ハーモニカ合奏指導  

 昭和15年鳥取県師範学校講習科を仮卒業して、東伯郡中北条尋常高等小学校に
代用教員として赴任した。3年生男子33人の担任となり、3月17日に本卒業して
准訓練となった。
4月から中北条国民学校と校名が変わり、終戦後の昭和22年までこの校名が続く。
この写真は「昭和17年2月25日学芸会でハーモニカ合奏」と記録にあるから
4年生の時の学芸会である。右から馬渕雄幸、森田嘉昌、私、友定隆之、野島道夫。

私のアルバム_f0018963_16254218.jpg












曲は太平洋行進曲だったと記憶している。右の2人が旋律を吹き、
左の2人が和音伴奏である。旋律は普通の複音ハーモニカで、
和音は小型で3種類の和音が出るハーモニカである。
ハホト、ハヘイ、ロニトの和音で、今で言うドミソ、ドファラ、シレソに当たる。
太平洋行進曲の合奏、編曲は私がした。ハーモニカ指導はクラスの
生徒達に教えて、もっとたくさんの人々が練習していたのであるが、
なかなかうまく吹けるようにならず、そのうち学芸会が迫ってしまった。
結局4人で合奏することになった。馬渕君と森田君は特に上達が速く、
ベースもうまく入るようになった。

時局は太平洋戦争に突入(昭和16年12月8日)後間もない時代であったが、
生徒の指導に、学習の授業に、随分と厳しいしつけをしていた。
全体責任だといって罪もない者も含めて、雪の中をはだしで何時間も
立たせたことは、時に記憶が鮮明である。3年の12月に担任になってから4年、
5年、6年と持ち上がり、卒業式を間近にひかえた19年2月25日、
下北条駅で歓呼の声に送られて生徒達と別れた。生徒と別れる時
「もとより生きて帰ろうなどと夢にも思いません。死して祖国の礎となる」と
挨拶したのをはっきり覚えている。
運がよかったのか悪かったのか、生存者の一人に入り、21年6月内地に
復員してきたのである。その後、教職として復帰。41年間の教職生活を経て定年退職。
今は自宅でささやかな農業を営んでいる。古いアルバムにこの写真があって
当時をなつかしんでいる。
森田君は特に音楽に秀でていたように思う。5年生になったらピアノを練習させた。
あれから約半世紀が経過した。馬渕君は今、北条町教育委員会教育長。
森田君は東伯小学校長として活躍。友定君は学校卒業依頼家業の畳屋を営み、
中部製畳で活躍。野島君は米子寿製菓の工場長として活躍していたが、私より
早く逝ってしまった。静かに冥福を祈る。

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私のアルバム_f0018963_183218.jpg

# by kanashuyuma | 2006-07-24 22:11 | 新聞こぼれ話

思い出のラジオ体操

思い出のラジオ体操_f0018963_18543085.jpg

ハナコのラジオ体操もどき。

●平成16年9月日本海新聞「やまびこ」より 時子ばあちゃん83歳の時。

8月16日、夏季巡回ラジオ体操が北条町で開かれた。
子どもからお年寄りまで参加を呼びかけていた。
私は年齢を考えると戸惑いを感じたが、友人に誘われ参加した。
会場には約1500人の参加者。ラジオ体操講師の長野信一さんの
流暢なおしゃべりで心をリラックスさせ、準備運動から始まり本番へ。
北条町の概況が説明され、号令とともにピアノの伴奏が流れ、
曇り空でもさわやかな空であった。
曲げたり伸ばしたり、ひねったり。いつも真剣に取り組み、
怠けた仕草はしない私だが、この日は特別であった。
長野さんの号令は全国津々浦々、外国までやっている。
その仲間に加わった喜びはひとしお。
深呼吸をすれば、グラウンドの空気は格別においしい。
80歳を超えた私の老いた血液が若返った思いをしながら帰途についた。
暑い夏であったが、この夏最高の思い出として、私のこころの1ページを飾りたい。
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この年、北条町は町制50周年を迎え、記念に巡回ラジオ体操が催された。
横着者のハナコは、ぐうたら朝寝を決め込んでいたのだが、
ああ それなのに、80を過ぎる時子ばあちゃんは・・・・・

いつもいつも 真っ直ぐに生きる。
「うそつき」と「怠け心」それに「盗人」が大嫌い!!が口癖だ。

今年も夏休みがやってきた。明日から、子供たちはラジオ体操で目を覚まし、一日が始まる。
今年こそ、ハナコは「ラジオ体操」で皆勤賞をねらっているのだが・・・。

★アニメラジオ体操
思い出のラジオ体操_f0018963_2037045.jpg
# by kanashuyuma | 2006-07-20 20:46 | おっせかいこぼれ話